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第4話 亀山城築城400年 明智光秀と出口王仁三郎初代総裁 

◇2010.7◇

大本本部・人類愛善会がある京都府亀岡市天恩郷には元々亀山城(別名亀宝城、霞城)というお城が建っていました。天恩郷の敷地は城跡なのです。城の名前が示すように、もともとは亀山という地名でしたが、明治2(1869)年に亀岡という名前に変わっています。
 今は禁足地となり、毎年8月の瑞生大祭期間中しか上がれませんが、月宮宝座という天恩郷で最も神聖とされている場所があります。そこが天守閣の跡になります。天恩郷で一番高い場所で、近くに樹齢400年を越える大きな銀杏の木があり、亀山城主だった明智光秀手植えの銀杏だと伝えられています(※初代の銀杏は江戸時代中期に台風で倒れたため、現在の銀杏は二代目という話もあります)。明智光秀といえば、本能寺の変で織田信長を討った武将。自分の主君を殺害した逆賊というイメージがあり、全国的な評判はあまり良くないようです。
 出口王仁三郎人類愛善会初代総裁はその明智光秀について次のように述べています。
「武田勝頼を亡ぼしてより、信長の心意行動共にやや驕慢(きょうまん)の度を加え、僅少(きんしょう)微細のことといえども立腹して功臣光秀を打擲(ちょうちゃく)し、家康の饗応(きょうおう)にも再び之を罵倒(ばとう)し侮辱を与え、ついには近習森蘭丸(らんまる)をして、鉄扇にてその面を破らしめ、近江(おうみ)丹波五十四万石の領地を召し上げて、以って中国に放たんとするに至った。忍びに忍び耐えに耐えたる堪忍(かんにん)袋の緒が切れて、光秀にとりては、不本意極まる、本能寺の変起こる止むを得ざるに立ち到(いた)らしめたるも、この間深き理由のあらねばならぬ事であろうと思われる。後世挙(こぞ)って光秀を逆賊と呼び、大悪無道と罵(ののし)る、果たして是(ぜ)とすべきものであろうか」(『出口王仁三郎全集』第一巻 第一篇 皇道大意 第一章 緒論)
「明智光秀は稀(まれ)に見る名将であったのである。太閤秀吉にあの偉業を遂げさした裏面には光秀の功績を無視することはできない。しかし表面伝わっている歴史では、主殺し親殺しの大罪人の汚名を着ているが決してそんな大悪人ではない。天下の将来を達観して大所高所から身を殺して仁をなした大勇者である」(「神の国」昭和10年10月「大鏡」)
 出口王仁三郎人類愛善会初代総裁は亀岡出身なので、身内びいきをしているのではないかと思うかもしれませんが、明智光秀が織田信長を討ったのは、当時の天皇を思ってのことだったという説が学会で出されるなど、近年その評価が大きく変わりつつあるように思えます。明智光秀は天正10(1582)年5月、本能寺の変を起こす直前、愛宕山で行われた連歌の会で「ときは今、あめが下知る、五月かな」という有名な歌を詠んでいます。この歌の従来の解釈では、「ときは今」とは、明智光秀は土岐氏であり、「あめが下知る」とは治天下、つまり「天下を自分が取る五月である」という明智光秀の野望が詠まれているとされていました。しかし、上田正昭京都大学名誉教授によれば、この解釈は誤りであり、「天皇の世にする」ということを詠んでいるとしています。上田正昭京都大学名誉教授自らが監修し、平成16(2004)年7月に全8巻の出版が完結した『新修亀岡市史』には、この点の分析が詳しくなされていますのでご覧いただきたいと思います。
 本年、平成22(2010)年は「丹波亀山城築城400年」と銘打って、様々なイベントが企画されています。亀岡市内を走るワンコインバスの車体にも「2010年 丹波亀山城築城400年 亀岡市制55周年」の文字が踊っています。明智光秀が亀山城を造ったのは、天正3(1575)年。それから数えて400年だと1975年となり、計算が合いません。400年前というと慶長15(1610)年。時は江戸時代、徳川二代将軍秀忠の時代です。この年、徳川幕府の命令で大規模な改修が行われ、五層の天守閣を始め、城郭の大部分が築かれます。本年平成22(2010)年は、徳川幕府の命令で立派なお城になってから400年ということだそうです。
 立派なお城だった亀山城ですが、明治11(1878)年には、政府の方針で廃城となり天守閣も解体され、建物の一部は払い下げられてしまいます。明治4(1871)年、亀岡で生まれた出口王仁三郎人類愛善会初代総裁は幼少の頃からよくこの亀山城趾に遊びに来ていたようで、亀山城に関わる歌もたくさん残しています。

「いとけなき頃は雲間に天守閣白壁映えしをなつかしみける」
 「旧城趾落ちたる瓦の片(きれ)あつめ城のかたちをつくりて遊びぬ」

現在も天恩郷の一角に建つ歌碑に刻まれている出口王仁三郎人類愛善会初代総裁のお歌です。荒れ果てて誰も顧みることのなかった亀山城趾を元の立派な姿に戻したい、そう考えていた出口王仁三郎人類愛善会初代総裁は大正8(1919)年、本丸、二の丸付近を入手。城内に残っていた石を掘り起こし、積み直して整備しました。翌年には大道場を開設。やがて、「天恩郷」と命名します。昭和10(1935)年12月8日、第二次大本事件で施設はことごとく破壊されましたが、その後復興し、現在に至っています。
 亀山城築城400年の記念の年、出口王仁三郎人類愛善会初代総裁が愛して止まなかった天恩郷に一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

(「人類愛善新聞」編集者 奥脇俊臣)


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